物語ること 補説

なやみ ごくよう

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物語ること 補説

2022/10/28

あらゆる過程において、関連は薄いという決めつけは支配(ドミナント)以外の何ものでもなく、それは機械が行うのではなくやはり人が行うものであるという事実に私を安心させると同時に、支配が有機的な関連性を見出せない機械と同一化したのではないかと「必要のない心配」をしたりもする。

つまりこれは「私ごときが心配することではない」と類似した構造をもつ…残念なことに振り出しに戻ってしまった。

 

往々にしてそういう行為は、いざ関連づけようとした時に茶々を入れられる。私と支配との間に信頼もなにもないがゆえに、勉強しようと準備している子どもが親からの「勉強しなさい」という支配的な言動によって自尊心を傷つけられて行動するための動機を失うあの現象が起こることはないが、こうした断絶が目的ではなく一連の流作業のなかで片手間で行われることに対する憤りはある。だが面白いことにどちらも目的は軽視である。この二重構造の軽視は短い過程をたどるか長い過程をたどるかの違いでしかなく、そのような構造を当たり前のように担ぎ、軽視に堪えかねた人々へ沈黙の自己責任論をかざす支配に対する憤りがあるから阿保みたい宣い続けたのであって、表だって「関連づける」機会を与えてくれたことは嬉しく思う。だが釣った、釣れたで騒ぎ立てるほど純粋ではないし、動機を欲していたといえども私は釣り人ではない。丁寧に関連づけなければ、つまり正直に表明しなければ理解されないことに対する悲しみの方が上回り(もちろん駄文であるがゆえに理解されない可能性も承知しており、それもまた悲しいことである)、その落差を動機として取り扱うために底の浅い期待を持つのかもしれない。

 

そうした決めつけは昨今さまざまな場所においてごく当たり前のように行われており、評価という独自の項目を確立しているが、その実、反応・反射でしかない。人々がそれに一定の正当性を与えたがるのは、そのちんけな道具をもってして他人に少なくない影響を与えては自らの有用性もしくは予測の正確性を確かめるためであって、その動機は自分が害されないために人を害することにある。評価は必ずしもする必要はないが、生命あるかぎり反応・反射はしなければならない。だが、前にも言ったようにそのインターバルは存在するようで存在しない。通常、人々が欲しているのは評価ではなく理解と手厚い補助であり、猶予のない状況で自分に対しても他人に対しても理解を示すことは困難を伴うのは誰の目にも明らかである。

あれこれ言ってきたが、私のこの意図しない表明も自分の立場を守るために行うのであって評価する立場ですらないのにこうしたシステムに組み込まれているのは、まるで評価や機械という偶像に身を捧げているようで恐ろしく感じる。

 

 

 

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