第1回「ためこむネズミとヒト」では、pack ratの特性と名称についての概略を記した。
第2回「モノへの敬意とエゴ」では、潜在的なpack ratだった私の祖父を引き合いに出しつつ、「もったいない」という言葉の含意を読もうとした。
第3回「ヴァレリーの偶像とホーディング」では、静岡大学言語文化学科の安永愛教授の論文をもとにホーディングと偶像に関する諸問題について考察した。
最後の第4回では、これまで触れてきたものを統合しつつ、「アニミズム」とホーディングの関係、またホーディングとの付き合い方、ホーダーたちの目指す場所について、関西大学 社会心理学者の池内裕美教授の論文とThe Los Angels timeの記事などから探っていきたい。
と思ったのだがアニミズムの補足が長文になったため、この最終回は2部に分けて投稿したいと思う。
本題に入る前に「アニミズム」に関する幾つかの事例を紹介していきたい。
第3回の文末に偶像と希望の話をした。その続きになるが、AKB48の誕生から10年後興味深いアルバムを出す。そのタイトル曲「ここがロドスだ、ここで跳べ」は歌うものと聞くものを妄想から現実に引き戻し鼓舞しようとしている。ある高校の進路指導通信ではその意味を肯定的に捉えており、ヘーゲルの法哲学の序論に出てくる有名な「ここに薔薇あり、ここにて踊れ」はその句をもじったもので和解の力(すり寄せ)を意味すると一般的には言われている。確かに これは歌うものの見る「今、ここ」と聞くものの見る「今、ここ」をすり寄せ等質に扱うための方便にも聞こえる。しかし実際 は等質などではなく、偶像と生きている私たちの間には依然として大きな隔たりがある。そもそも偶像はどこまで跳び、聞くものはどこからどこまで跳べばいいのだろうか。大きな声で問うたところでこだますら返ってこない。
秋元康がヘーゲルとマルクスのどちらかを引き合いに出したかったのかはわからないが、「ここに薔薇あり、ここにて踊れ」の方が有名であり、歌って踊る偶像ならそのイメージにも合致しそうである。
「『概念把握すること、実体的に存在するものに於いて主体的自由を保持し、そして或る一つの特殊にして偶然なるものに於いてではなく、即且つ対自的に存在するものに於いて主体的自由をもって存する』ことへの内的要求をすでにもっているのであるならば、まさにこここそそのような要求に応えるところである、すなわち、ここにて踊れ、というのである」(※1)(原著の鍵括弧を二重鍵括弧に、圏点を下線に変更)。この偶像が(理論上では)自他に主体的自由を投影しようという試みの元つくられたのであれば、構造的な意味合いにおいても「ここにて踊れ」が適当であるように見える。
果たしてそうだろうか。「この場合の『ここ』とは、あれこれの感覚的事物が現前しているところの『ここ』ではない。それは近世の『神の喪失』が『喪失』として現前する場である」(※1)。キリスト教義以前に、大きな物語の喪失の痛みや苦悩を歌うもの自身が把握し引き受け負わなければ、聞くものもまた把握し引き受け負うこともない。自身を大きな物語に組みこませたいのなら、その器たる大きな物語を復活させなければならない。偶像を偶像たらしめるだけの努力は十字架でも薔薇でもなく「絶対的苦悩」でもない。「ここがロドスだ、ここで跳べ」というタイトルは、AKB48という偶像が「ここに薔薇あり、ここにて踊れ」にみられる時代を超越できなくとも祈りを捧げることはできるという希望にも、物語の寓話的側面の補填にも、時代すら超越する「生の輪舞」の踊りにもなり得ないことと同時に秋元康がアイドルの限界を知っていた可能性を示している。「ここに薔薇あり、ここにて踊れ」にすら辿り着けない彼らの「跳ぶ」は周到に用意された舞台のうえでの垂直跳びでしかなく、超越などそれこそほら吹きの妄想にすぎない。
では何故このような事態が起こり、アニミズムと関連するのか。それは「アイドルの民主化」 、「キャラクターの偶像化」、「偶像のキャラクター化」(※2)に起因する。
AKB48が誕生したいわゆるゼロ世代は大きな物語を失い「キャラクターの偶像化」と「偶像のキャラクター」との壁が崩壊した時代でもある。同時にアイドルが高嶺の花ではなくなりひとつの属性にまで格下げされた「アイドルの民主化」の幕開けでもある(※2)。氷河期が来れば春が来る。地球が壊れていないのなら環境も生態も変化するのは自明のことである。
「現代アイドルの魅力は、具体的な素の存在に基づく『現実空間』における『キャラクター性』と、アニメやマンガのキャラクターに通じるように、類型化されたイメージの中から選び取られた『仮想空間』における『偶像』性の二重構造を持っていることにある」(※3)
と言われているが、これはなにも現実のアイドルに限った話ではない。AKB48の誕生と時は同じく2005年にナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)から「アイドルプロデュース体験ゲーム」としてTHE IDOLM@STER(以下「アイマス」という)が稼働する。「現実空間」でのみ「仮想空間」に繋がるしかなかったアイマスのヴァーチャルアイドルたちは「キャラクターの偶像化」と「偶像のキャラクター化」のバランスが厳密に保たれていた。偶像の中の偶像であることへの配慮とも言えた。逆に言えば、そのバランスがなければいとも容易く崩壊していた偶像であることを示している。現にそのバランスを崩してしまったアイマス2は非難を浴びることになる。開発陣は偶像の繊細さを理解していたはずだ。生身の人間に寄せてつくるがゆえに、モノとして丁寧に扱うことが必要になってくる。少なくとも偶像の本質に限れば「仮想空間」を専門とした人々のほうが理解していたということだろう。しかし魅力あるものというのはそれを提示するほうも享受するほうも常にリスクを伴うものだ。確かに偶像は民主化した。しかしそれを崇める人々はどうだろうか。「AKB48などグループ・アイドルの台頭は最近の先進国にしばしば見られる若い世代の草の根国家主義を抑制しているという境[2014]の説は卓見である」(※4)。「人間は成長するがキャラは成長しない」(※5)というのはあまりにも楽観的すぎる。成長しないモノに足を引っ張られては本末転倒というものだ。
「アイドル成功の鍵は、(中略)アイドルにストーリーや個性を持たせる『プロデュース力』が大きく関わる」(※6)。そしてプロデュースとは生気を吹き込もうとする行為である。「キャラクターの偶像化」という接近可能性と「偶像のキャラクター化」という個人体験の依拠とが混ざりあった結果、フラテ・ジェルマノが「浮彫からは、矮人たちが笑って飛び出すでしょう。かれらさえも大いなる神の家では、自分の場所を与えられるのです。石棺の上には、他の人々は壊れた砂時計を置くでしょう。(中略)こうして虚栄に、死に打ちかつのです」(※7)とロマネスクの春を前に歓喜したように、偶像に生命の息吹を感じたのはなにも不思議ではない。確かに当時、地球は破壊されはしなかった。虚栄や死に打ちかつことができたという安堵といずれ来る不安から様々なモノに生気を吹き込み管理するようになった。もはやモノに対する敬意の範疇を超えた。偶像はpack ratと同じくためこむだけためこむ。人々の生気をためこんで大きくなった偶像が人々と同じ視座を持てるわけがない。そんな状況のなか甘言を弄しているようではいつまで経っても飛び越えられない。AKB48もアイマスも確かに多大な経済効果と影響を及ぼした。しかし私には歌わされたものよりもヴァレリーの声の方が大きく聞こえる。
「過大評価さえているものに対する懐疑の目を向けることが、ひとつの偶像破壊の仕草なのである」(※8)。彼らは偶像に期待しすぎているのだ。
2つ目の事例は、現代アイドルとの結びつきが強いサブカルチャーである。
この回では個々の作品の批評は他に譲るが、サブカルチャーと消費者との関係について軽く説明する。ヴィジュアルノベルCLANNADを形容する「CLANNADは人生」は有名な言葉である。これは「キャラクターの偶像化」と「偶像のキャラクター化」の混合をよく示す事例だ。人々はCLANNADに理想の人生を投影させる。CLANNADは人々に理想の人生の依拠をみせる。だが、人生とは偶像化されるものでもキャラクター化するものでもない。もちろん私はその言葉が「真面目に」使われたとは思ってはいない。シニシズムに浸りその言葉を馬鹿にするもの、製作者のコメントを解釈したものどちらもが二重の意味でその混合を人生の様態としてみた可能性はある。
ヴィジュアルノベルは大方コンテクストやナラティブから成り立つが、否定するもの肯定するものどちらも人生を客観的な総評かなにかだと思っている。確かにこれは主人公岡崎朋也の人生をおおまかに辿っている。しかし私たちは彼ではないし、彼らの人生の一端を垣間見れたとしてもその価値を認めたところで追従できるわけでもなければ、それが直接、中島梓のいう「他者の行動様式に対する想像力」を補填してくれるわけでもない。PCモニタの目の前で「CLANNADは人生」と言ったところで、岡崎の人生を肯定すること=自分たちの人生を肯定することに繋がるはずもない。シオランの「なぜ私たちは、もろもろの生きた真実の価値それだけを認めようとはしないのか」という人類に課せられた永久的な問いを前にして、彼らはそれに答えることはできない。なんのためにヴィジュアルノベルという形式を採用したのかよりメタ的に考える必要があるのではないか。個々の人生のなかで再定義しない限り「『現実』と『虚構』とが分裂し、トータルな”現実”を構成するリズムとはなりえず、それを統合しようとする秩序や価値観の見通しも立たないまま、ミクロな感性体験だけが人の原初の衝動に近づいていくゲームという文化装置」(※9)のままである。
「想像力のエコロジーを簡単に崩してしまいかねない危険をわきまえたうえで、せめてゲームとともに成長し、抜きがたい原体験としてもつ僕たちくらいが、そいつにうまい“現実”での居所を与えてやるようなやりようを考えないでどうするのか。それができないかぎり、僕らはいつか、みずからをフェイクの牢獄にとらえられた操り人形に貶めてしまうのではないでしょうか」(※9)という中川大地氏の言説は、
「生物学的な人間のあとにはヴァーチャルな人間が登場してくるだろう。あたかも自分だけが『現実に存在するのであり、自分に似た存在は、虚しい影、純然たる亡霊にすぎないかのように』生き、考え、行動した個体は、今度は自分自身が自らの影になるよう唆されるのである」(※10)とのちのヴィリリオの予言を丁寧に補足している。
「トータルな世界観の共有のもと、そのなかでの秩序ある進行としてケとハレのリズムが存在する本来の祝祭が機能する社会の文脈とは、似ても似つかない」(※9)からこそ、偶像崇拝は恐ろしいのだ。
「キャラクターの偶像化」も「偶像のキャラクター化」も偶像である。混合したところでやはり偶像でしかない。本来モノとの関係性を恐れもなく拡張した結果が、「CLANNADは人生」に繋がる。そもそもCLANNADは人生ではなくアイリッシュバンドである。あの日、インターネットから原名アーティストの情報がゲームやアニメによって上塗りされた衝撃を覚えている。せめて題名だけでなく彼らの人生を肯定するような関係性を組み込んでいたならば陳腐なキャッチコピーにも少しは重みがあっただろう。
3つ目の事例はSNSにおけるフェミニズムである。サブカルチャーを槍玉に挙げる手法が確立しつつある昨今だが、滑稽な構造を持っている。いわゆるフェミニストたちは「キャラクターの偶像化」を叩いているいるが、フェミニストもまた女性を理想化した偶像を実現させようとしている。やっていることは女性の偶像化である。SNSにショルダーバックをたすき掛けにして外出した女性が、たすき掛けによって胸部が強調されたキャラクターが表紙を飾るマンガやオススメと書かれたポップをみて不快になるという絵がある。現実の特性を性的に描く行為への批判は現実の女性の自由を守るという主旨だ。これは性的モノ化や性的消費と言われているが、人間社会においてモノ化つまり偶像は必要であり、それを良く思わない場合大抵人間の選別が絡んでいる。ある人からのモノ化は良くて、別の人からのモノ化は赦さないと言ったような選別だ。これは評価といえる。そして評価というのは自らが行った時点で自らが評価される立場に晒される。この連鎖を承諾している時点で評価されたからといって大義名分を掲げて反抗する必要はない。そうした反抗は自らをモノ化しているにすぎず、そうした争いも無益どころか多くの人を巻き込んだ挙句不幸にさせる。これは間違っても誹謗中傷に堪えろという話ではない。モノ化が避けられない以上、(モノ化した上で)お互いの尊厳を守ることが重要なのだ。サブカルチャーにせよフェミニズムにせよ昔は互いに曖昧な密約を交わして、互いに痛いところを看過して、互いにその原理を黙認していたはずだだ。結果がどうあれ、まだそちらのほうが人間の尊厳を理解していた。少なくとも現在よりかはモノと人間の関係に対する敬意を抱いていた。
フェミニストは稚拙な偶像崇拝から抜け出したと思っている。西洋が自分たちの感性を正当化するために古来よりあった偶像崇拝を発展途上の文化だと見なしたところまで丁寧に模倣している。そして西洋の矛盾をしっかりと抱え込んでいる。フェミニストに対して表現の自由派が「ないものねだりだ」と批判しているがある程度的を得ている。ルサンチマンとまではいかないものの、超自我に応えられない自己に対する感情の反応であるのは間違いない。だが、道徳的マゾヒズムに浸っているのはフェミニストに限らず、批判する人間も書き手も同じである。そのようなネガティブな意味でもサブカルチャーとフェミニズムは結託していた。
生命を吹き込みすぎた偶像が現実の人間のように見えるのはしかたないことだろう。現在の偶像にはそれほどまでに手が加えられている。逆に言えば、手が加えられていない偶像は存在する価値がないとまで見なされる。フェミニズムもまた安易に資本主義の選別へと乗りかかる。それ故にフェミニズムは「偶像のキャラクター化」には目もくれない。他者の目線に合わせられないため、道徳的マゾヒズムによる模索を行うしかない。近代的自己の限界の話はどうなったのだろうか。当然ながら、「私自身」のまま接近するだけでは偶像の全貌は見えない。評価と同じく偶像を理由に行動した場合、それがどのような理由であれ必ず偶像に囚われる。「決して、自分自身の認識し得ない部分でないものに対して偶像の価値あるいは力を与えないこと。グラディアートル」(※13)とあるが名馬をもじったヴァレリーの信念は、名馬を偶像化ともにキャラクター化したゲームが流行っている現在において強烈な皮肉と言えるだろう。
以上、現代に顕著な偶像崇拝を見てきた。他にも様々な場面で様々な形の偶像崇拝が見られる。そして行き過ぎた偶像崇拝には行き過ぎたアニミズムがある。ロマネスクの春から千年たった。「千年、きっかり千年。千年、きっかり千年。」という修道士たちの言葉には予言めいたものを感じざるを得ない。
第2部では、本題であるホーディングとアニミズムとの関係についてまとめていきたい。
※1 圓増治之(1989) ニーチェに於ける生のメタファとしての「舞踏」 『長野大学紀要 / 長野大学紀要編集委員会 編』 11巻2号 p.22
※2 猫拳@はてなブログ
アイマス2騒動で顕になった「アイマスキャラ≠偶像」という事実と、二次元アイドルのふたつのあり方 2010-9-22
https://catfist.hatenablog.com/entry/20100922/1285175471